2008/07/25

たまの息抜き: 4人の同窓会

トモオとクズタニとオサヒデと僕の4人が集まりました。地元の私立で中学高校を一緒にすごした連中でして、ひさしぶりに心のそこから笑っちゃいました。日ごろは冷笑、吊られ笑い、憫笑、ごまかし笑いなどなどまぁほとんど付き合いで笑う機会しかなく、ヴァラエティーを見ててもたまにつぼに入りますが、長く尾を引かないで終わります。

良い息抜きになりました。お互い時々同じ年齢であることを忘れます。すなわち世間体を繕うものの言い方が出るにはでるけど、そこはそれ、昔の遊び友達、それも損得抜きで思春期を一緒にすごしたところから、すぐばれて大笑い!

たまたま「太陽がいっぱい」をTVでやった後なので話しが及びましたが、高校生だった1960年前後、ちょうど今の中国のように国全体が上り調子の入り口で、大人も子供も一緒んなって白黒TVの画面を見つめ、元気だった巨人の長島や王の話で盛り上がった当時を思い出しながら、ねぇまったく長く生きたもんだ、というのがお互いの感想であります。

昭和20年前後7-8年間、すなわち昭和16年から25年の間に生まれたわれわれは、戦後の風や文明の移り変わりのテンポが変化するさまを体験してきたのですが、まぁあっという間でありまして、もう一度やり直したいところは多々あれども、これからの世の中のスピードについていけるかどうかとなれば、そりゃぁもう死んじゃったほうが正解かもしれません。

まぁいずれにしても相変わらず過去に生きているお役人連中を抱えていては、日本の将来はない、でしょうね。それに対してできることが何かあるのでしょうか?

まぁ自分の身を守るのが精一杯かな?稼がねば!

2008/07/23

一筋の光明・行動こそが結果を生む

<このブログは昨年の11月に別サイトに入れていたものです>

金曜日のこと、朝、町中さんに電話して何が不足していたのか聞いてみた。「要は荒いんですよ」というのが返事で、「それじゃ、30分ぐらい時間いただけませんか?伺って教えていただきたいと思うんですが」町中氏のいわく、「あっと、今日はだめ。忙しいんだけど・・・」、いつもならここで終わりなんだけど、日ごろの修行の結果、もう一押しできるようになっている僕は、強いんだな。


「じゃあ、電話でも、ここまま待ってますから。例を一ついただけませんか?」と押してみたら、何のことはない、「提出分送りましょう、それでいいですか?」当然、僕とすればOKですねぇ。「恐れ入ります。勉強させていただきます。ありがとうございます。」これでいいんでしょ?


かわら君とは今週中に方針決めようよ、といっといてすぐ翌日簡単な収支計算を送った。結論は明らか。コストから言えば彼一人の経費しか出てこない。なら、僕は避けて通ればいいじゃん、それだけなんだけど、この簡単な思い切りが昔は難しかった。なぜなんだろうと思いつつ、電話営業の某社接続先を思い出した。


担当者の気が良いと、なかなか電話がきれない。にこやかに断りをいえる人間が意外に少ないことに気がついている。やはり40代前後の人間にならないとできないんだろうか?そんなことはないよね。こんな簡単な事は教育次第じゃないのかなぁ、と思いつつこれを書きながら、いやもしかしたら心の余裕も関係するのかも知れない、とちょっと思ったんであります。


なぜ?自分の経験でいえば、余裕がないとつっけんどんになる。当然腹立たしく断りの文句が出てくる。近くに上司やrなにやらいると、なかなかそういう口調自体が難しいんだろうね。だから煮え切らないままに電話が長引いて、ますます腹が立つ。というdown spiralなんだろうな。余裕があれば、ほんの10秒話に付き合って、すっと断ることができるはずだけど。何が光明?そうです、かわら君との結論がらくらく自分が欲しかった形に落ちたこと。やっぱり積極的行動の勝利と一人納得中なのであります。

昨日あおきさんにお会いしました

いやぁーまったく暑い。夕刻の多少日陰になった島津山の坂を気持ちよくかぜに 吹かれながら上っていくと、頂上付近で向こうからやってくるあおきさんにお会いしました。昨年おなじ信号のあたりでばったり会って以後、3回目の邂逅であります。

あおきさんのセミナーを受けたのはもう20年ぐらい前になりますか、当時の横綱へのインタビューを素材に『なせば為る、なさねば為らぬ何事も・・・・』の心を勉強しました。

それ以降、ぼくの方は企業合併やら買収やら、今思えば若気の至りつくし浮かれまくりの毎日を送り、世紀の変わり目にはついに罰が当る、とでも言いようのない場面に遭遇して人生の結末を作り損ねて現在に至っていますが、どうやらあおきさんは違ったようです。

人生も終盤を迎えるといろんなことが見えてきます。でもそのときは諦めの気持ちと、なにくそ!という気持ちと50/50が最高の比率で、なかなか『なにくそ!』の比率を高めることができないのです。先が見えることと合わせて、あとせいぜい生きても10年だモンな、が邪魔をします。これがあるとき=50/50の時には『10年あればいろんなことができる』と揉み手をするような気分になりますが、続かない。

これを助けるのは計画書である、と今年の正月に気づいて以来進み方が早くなりました。ねぇあおきさん、今頃とはいえ、ようやく当時教えていただいたことが実現できるようになった自分を改めて報告させていただきましょう。人生まだまだこれから、これから!

2008/07/12

246というグループがあります。

1967年8月だったように記憶していますが、シカゴ空港に到着。シカゴLoopのPalmer Houseという当時一流ホテルに生意気にも宿泊いたしたのです。ロビーの装飾や室内の趣きは、マフィアの世界に近いものがあり、アメリカを実感したものでした。

アメリカでの初めての始まりです。始めて床やへ行きました。床屋業務終了のタイミングがわからず、椅子から2-3度立ち上がろうとしたのを「まだ終わんないの!」とオッちゃんにたしなめられたことを覚えています。

免許がほしくて、もちろんドライバーライセンスですが、警察へ行こうとしたら違うんだ、と言われてじゃぁどうすりゃイイのよ?と英語で聞くこともできず路上にたたずんでいたことを覚えています。


そして、展示会開始となっても展示物が到着せず、空港税関まで取りに行ったところ、ちょうど昼飯時で黒い肌の人たちと一緒になって、ミートローフを屋台で購入し、おいしく食べたことも思い出します。

そして極めつけは、当時あたりまえだった飛行機の予約確認reconfirmをamerican airlineに入れながら、何か向こうがしゃべっている内容を聞き取れず、AAの除く全エアラインのストライキに巻き込まれ、翌日のニューヨーク入りに列車を使わざるを得なくなったことも思い出します。ほぼ12時間あるいはもっとだったかもしれません、かかったのですが車中やはり黒肌の人に気に入られて、一晩中ぼそぼそ話をしていたように記憶しています。

でもそんなに英語しゃべれなかったんだけどなぁ?

ロッキー青木死亡の報に接し、当時のいろんなことが浮かび上がってきて、今日はいちんち何もせずに終わってしまいました。